新型コロナウイルス感染症の蔓延を原因とする業績悪化の中で、企業がやむを得ず従業員の昇給を見送ったり、降給を検討する必要が生じるケースもあるかと思います。本記事では、このような昇給の見送り、降給に関する法律問題を中心に、感染防止のための通勤手段の変更に伴う交通費の支給に関する問題点について検討をしていきたいと思います。
1. 昇給の時期の変更
Q1 毎年6月に行われている昇給の時期を変更することはできますか。
(1) 労働条件の変更の方法
昇給に関する事項は、労働契約の締結にあたって書面により明示しなければならない労働条件であり(労働基準法第15条第1項、労働基準法施行規則第5条第1項第3号)、就業規則の絶対的記載事項(労働基準法第89条第2号)です。そして、昇給の時期が労働契約書に明示されていたり就業規則に記載されていることが通常です(労働条件について、詳しくは、「新型コロナウイルスに関する労務(休業②)」のQ6(3)(a)をご覧ください。)。
従って、毎年一定の時期に行われている昇給の時期を変更することは、労働条件の変更に該当します。労働条件の変更は、労働契約の当事者との合意による方法(労働契約法第8条)と、労働者の合意を得ることなく就業規則を変更することによる方法(労働契約法第10条)のいずれかにより行います。
(2) 労働契約の規定を根拠とした昇給時期の変更
但し、労働条件の変更方法を検討する前に、労働契約書や就業規則の規定をしっかり確認してください。例えば、昇給時期について会社の裁量により変更可能とする規定がある場合には、労働条件の変更のための手続を行うことなく、労働条件に定められた会社の裁量権の行使により昇給の時期を変更することができる可能性があるからです。
なお、このような会社の裁量権の行使が労働契約書のみに記載されており、就業規則には記載されていない場合には、労働契約書の関連条項が無効となる可能性がありますので注意が必要です。なぜなら、就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分について無効となるからです(労働契約法第12条)。
また、当該変更の必要性、変更の時期、労働者への影響等を考慮し、昇給時期の変更が権利濫用として無効と判断される可能性もあります。この点についても、慎重な検討が必要です。
(3) 労働者との合意による変更
労働契約の規定を根拠として昇給の時期を変更することができない場合、労働者と使用者との合意による労働条件の変更の方法で昇給の時期を変更することが可能です。
但し、この場合でも、就業規則をチェックし、労働者の合意が得られた労働条件が就業規則に定める労働条件より労働者に不利益とならないかの検討を行う必要があります。
就業規則が制定されている場合で就業規則に昇給時期の変更の根拠となる規定が存在しないときには、労働者との間での合意によって、昇給の時期を就業規則記載の時期より遅らせることは、就業規則に定めるよりも不利な労働条件を設定することになります。従って、このような労働条件の変更は、たとえ労働者との間で合意したとしても無効となります(労働契約法第12条)。このため、労働者の同意を得るだけでは昇給の時期を変更することができず、就業規則の変更が必要となります。
以上をまとめると、就業規則が制定されている場合で就業規則に昇給時期の変更の根拠となる規定が存在しないときには、昇給時期の変更は就業規則の変更の方法により行わなければならず、それ以外の場合には、労働者との合意による方法で昇給の時期を変更することが可能であるということになります。
(4) 就業規則の変更による変更
労働契約の規定を根拠として昇給の時期を変更することができない場合、労働者と使用者との合意による労働条件の変更の方法で昇給の時期を変更することが可能です。
昇給の時期を遅らせることは、労働条件の不利益変更となります。就業規則を変更することにより労働条件の不利益変更を行うためには、①変更後の就業規則の労働者への周知、②就業規則の変更の合理性の存在、③問題となる労働条件について就業規則によっては変更されないとの特約が存在しないことを満たす必要があります(労働契約法第10条)。
②の変更の合理性は、具体的には、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情を検討するものとされています。
なお、就業規則に記載する昇給の時期を変更することに加えて、会社が昇給の時期を変更することを認める規定も、今後のために追加しておくのがよいでしょう。
(5) 必ず昇給させないといけないのか
以上では、昇給の時期を変更する方法について検討してきました。昇給の時期を遅らせるというのは、現状の労働契約に定められている時期において昇給を行うのを避けたいという使用者側の事情によります。では、根本的な問題として、そもそも必ず時期が来たら昇給をしなければならないのでしょうか。
この点は、労働契約書や就業規則においてどのように規定されているかが重要です。例えば、「昇給は毎年4月1日に行う。」となっている場合、毎年昇給を行わなければならないと解釈されるでしょう。一方で、「昇給は毎年4月1日に行う。但し、会社の業績、本人の勤務態度及び業績等により昇給を行わない場合がある。」というように、必ず昇給を行うわけではないということが明確になっているような場合には、当該規定に従って、昇給を行わないとすることも可能です。但し、昇給を行わないことに合理性がない場合には、昇給を行わないという決定が権利濫用として無効とされる可能性がありますので注意が必要です。
以上からすると、労働契約書や就業規則の規定が昇給を行わないことを許容する内容である場合、労働条件の変更手続を行った上で昇給の時期を遅らせるという対応をとるまでもなく、当該規定に従い所定の時期において昇給を行わないという決定を行えば済むということになります。
労働契約書や就業規則の文言がいかに重要かお分かりいただけたのではないでしょうか。
2. 降給
Q2 新型コロナウイルス感染症の蔓延による業績不振を理由に降給することはできますか。
(1) 労働条件の変更の方法
給与を減額するという降給は労働条件の変更です。新型コロナウイルス感染症の蔓延による業績不振が理由でも、降給にあたって特別な制度があるわけではありません。考え方としては、上記1「昇給の時期の変更」と同じです。
(2) 労働契約の規定を根拠とした降給
まず、労働条件の変更方法を検討する前に、労働契約書や就業規則の規定をしっかり確認してください。例えば「給与改定(昇給・降給)は会社の業績、個人の勤務態度及び業績等を勘案して、毎年4月1日に行う。」というように、降給を行うことがある旨明確にされている場合、労働条件の変更ための手続を経ることなく、使用者による業務命令で降給を行うことができます。
なお、労働契約書には降給の可能性が規定されているが、就業規則には記載されていない場合には、就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約として、労働契約法第12条によりその部分が無効となる可能性がありますので注意が必要です。その場合には、就業規則の変更を行う必要があります。これについては、下記(4)をご参照ください。
また、降給の必要性、時期、労働者への影響等を考慮し、降給が権利濫用として無効と判断される可能性もあります。特に、降給の合理性の判断にあたっては、高度の業務上の必要性が求められます。この高度の必要性が存在するというために、財務諸表の数値データ等の根拠が必要と考えるべきでしょう。また、労働基準法第91条(就業規則に減給の制裁を定める場合に、減給額を賃金の総額の1/10までに限定する規定)と同様に、減額幅を給与の10%以内に限定するべきだという考え方もありますので、減額はその範囲に止めておくのが安全です。
(3) 労働者との合意による降給
労働契約の規定を根拠として降給を行うことができない場合、労働者と使用者との合意による労働条件の変更の方法で降給を行うことが可能です。
但し、就業規則が制定されている場合で就業規則に降給の根拠となる規定が存在しないときには、降給を認めないというのが就業規則で定める基準(労働契約法第12条)であると考えられます。この場合に労働者と使用者との間での合意により降給を行うことは、労働契約法第12条の趣旨に反するとして無効となる可能性があります※。
以上をまとめると、就業規則が定められている場合で就業規則に減給の根拠となる規定が存在しないときには、降給は、就業規則の規定を変更することにより行われなければならず、それ以外の場合には、労働者と使用者との合意により、降給を行うことが可能であるということになります。
※ 同条は、「就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約」を無効とするものです。就業規則において給与の具体的な金額や算定基準が規定されていない場合には、労使間の合意により降給された後の給与の金額は、形式的には、就業規則で定める基準に達しない労働条件とはいえません。今回のようなケースで問題となるのは、変更後の労働条件というよりは、むしろ労使間の合意により労働契約を変更するという手続です。労働契約法12条の文言は、労働条件の変更手続を直接の規制対象とはしていませんが、今回のケースは、労使間の合意により降給という労働条件の変更を行った手続が、同条の趣旨に反するため無効となる可能性があると考えます。
(4) 就業規則の変更による降給
労働契約の規定を根拠として降給を行うことができない場合、就業規則を変更し、降給を行うことが可能です(労働契約法第10条)。具体的な変更内容としては、降給を行う根拠規定を新設する、降給を反映させた賃金規定の改定を行う等が考えられます。
この場合、①変更後の就業規則の労働者への周知、②就業規則の変更の合理性の存在、③問題となる労働条件について就業規則によっては変更されないとの特約が存在しないことを満たす必要があります。
②の変更の合理性は、具体的には、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情を検討するものとされています。降給の場合は、この②の合理性の判断に注意が必要となります。
すなわち、降給の場合、就業規則の変更の合理性の判断にあたっては、高度の業務上の必要性が求められます。この高度の必要性が存在することを証明するために、財務諸表の数値データ等に基づいた客観的な説明ができるようあらかじめ準備しておくべきです。また、労働基準法第91条(就業規則に減給の制裁を定める場合に、減給額を賃金の総額の1/10までに限定する規定)と同様に、減額幅を給与の10%以内に限定するべきだという考え方もありますので、減額はその範囲に止めておくのが安全です。
3. 交通費の支給
Q3 通勤手段として電車又はバスを使用している労働者が、新型コロナウイルス感染症の感染予防のため通勤手段の変更を希望している場合、交通費の支給に関してはどのように対応すべきか。
(1) 結論
現在の交通費の支給を定めている就業規則や労働契約等の規定に従い対応することになります。
(2) 交通費の支払義務
交通費については本来使用者に支払義務はありません。交通費の支給を就業規則や労働契約等に規定する等使用者が支払に合意している場合に限り、使用者に交通費の支払義務が発生します。従って、交通費の支給についてどのように取り扱うべきかは、就業規則や労働契約等の規定を確認する必要があります。
(3) 交通費支給の根拠規定
交通費に関する就業規則の規定については、以下の①乃至③の類型が想定されます。
① 労働者が実際に使用する通勤手段にかかわらず一定額を支給する規定
例えば「所要時間及び金額等を総合的に勘案して、最も合理的な通常の経路であると会社が認めた区間の交通費を支給する」という規定です。
この場合、労働者が通勤手段を変更したとしても、支給すべき交通費を変更する必要はありません。
② 労働者が実際に使用する通勤手段から生じる交通費を支給する規定
例えば「通勤手当は、住居から勤務する事業場までの距離が1.5km以上ある者に対して、その実費全額を支給する」という規定です。
この規定は、交通手段の限定や交通費の上限を定めておりません。従って、労働者が通勤手段を変更した場合に、変更後の通勤手段にかかる交通費が以前よりも高額になったとしても、変更後交通手段にかかる交通費の支給を拒絶することは困難です。
このような事態を避けるため、交通手段の限定や交通費の上限を定めておくことをお勧めします。
③ 労働者が会社の指定する通勤手段を使用する場合のみ交通費を支給する規定
例えば「通勤手当は、通勤のため常に公共交通機関を利用する従業員に対し、非課税限度額の範囲内で実費支給する。実費の支給は、最も簡便な公共交通機関を使用するものと会社が認めた場合について行う。」という規定です。
この場合、これまで使用していた電車又はバスから他の通勤手段に変更したとしても、変更後の交通手段が最も簡便な公共交通機関として会社が認めるものでなければ、変更後の交通手段にかかる交通費を支給する必要はありません。例えば、労働者が新型コロナウイルス感染症対策として公共交通機関を避けて自動車通勤を希望した場合、自動車は公共交通機関ではありませんので、使用者は自動車通勤にかかる費用を支払う義務はありません。もちろん使用者が自発的にそのような交通費を支給することはできますが、その場合でも、新型コロナウイルス感染症対策の一時的な取り扱いであることを明確にしておく必要がありますし、また、希望者全員に自動車通勤を認めるわけではないならば、自動車通勤を認める合理的な基準を公表しておくべきでしょう。
4. さいごに
ここまで昇給の延期、降給及び通勤手段変更の場合の交通費の支給に伴う法律問題について検討してきました。今回の記事を読んでいただいた方にはお分かりいただけたと思いますが、これらの法律問題のいずれについても、就業規則や労働契約書にどのように規定されているかが極めて重要です。これを機会に、貴社の就業規則や労働契約書のテンプレートを見直してみてはいかがでしょうか。
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